真光寺の歴史

真光寺と有島家

真光寺と有島家の物語をご紹介いたします。
著名な芸術三兄弟、有島武郎、有島生馬、里見弴の父、有島武は川内市平佐町の出身です。
その有島武と親戚である有島加和子は真光寺と深い結びつきがありました。

右の写真は現在も真光寺本堂にある大鏧(だいきん)と聖徳太子厨子です。本堂の大鏧は現在も真光寺で使用しており、本堂落成(1893)を記念して加和子が寄進したものです。大鏧の裏には「奉仏前有島かわ」の銘が入っています。聖徳太子厨子も加和子が寄進したもので、本堂御内陣に安置されています。
聖徳太子厨子
真光寺本堂の大鏧

真光寺と有島家の物語

有島 加和子  1829-1916

有島加和子は、白和の川添加兵衛の三女として誕生しました。
のちに平佐北郷家第12代領主 久新の侍女となり、久新の子を身ごもったことにより、お家騒動が起こりました。(いわゆる「平佐崩れ」)その後、実家に戻り、24歳の時、第13代領主 久信のはからいで藩医の有島謙哉と結婚しました。少女時代から大変な苦労を経験したためか、若くして念仏に生きる身となりました。加和子は、率先して白和の婦人達とともに、最勝講を結成するなど真宗興隆にも大きく貢献しました。
有島 加和子

有島 健助  1868-1947

有島加和子の三男、有島健助は、大正〜昭和と日本の経済界を牽引し、明治製糖〜明治乳業の社長となり会長の相馬半治を長年支えました。母・加和子が亡くなった後も、健助の手によって有島家からの真光寺への支援は続き、川内幼稚園(現在の川内隣保館保育園)の開設(1927年)の際には、園舎設立のために多額の寄付をしました。
有島 健助
昭和3年川内幼稚園(真光寺)来訪

有島 武  1842-1916

同じ「有島」姓で親戚にあたる有島健助の若かりし頃、有島武は物心両面にわたり面倒を見ました。勤勉で優秀だった武は、第13代領主 久信に取り立てられ、長崎や東京で蘭学や砲術などを学ぶ機会を得ました。島津藩軍務局三等指南役や藩校一等副教官を務め、維新後は上京して大蔵省の官僚となりました。国債局長や横浜税関長を歴任、退官後は日本郵船など実業界で活躍しました。武は五男二女をもうけた。そのうち、武郎、生馬、里見弴(この3人は「有島三兄弟」と言われる)は大正時代に台頭した白樺派のメンバーとして有名です。有島三兄弟にとっても川内・平佐は特別な場所でした。有島武郎は、大正3年8月5日、父武とともに川内に里帰りした折に真光寺を訪れました。
 ▶里見 弴関連の資料は、慈眼堂の法物室に展示しています。
有島 武
有島三兄弟
里見 弴