真光寺の歴史

かくれ念仏の歴史

鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。
浄土真宗のみ教えが人々の間に流布すると、為政者による浄土真宗排斥の気運が生じました。それは「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い」という浄土真宗の教えが、当時の封建体制に相添ぐわなかったからです。そして真宗信者の結束力による統一的な行動が、政治的に利用され、一向一揆へと進展する危険性をはらんで、封建体制にとっては危険を感ずるものであったからと言われています。
以来、真宗信者の摘発は続きますが、慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に真宗が禁止されたのでした。
弾圧は厳しく、特に郷士層への摘発がなされ、身分を百姓へ移し、また居住地をも移すという処分が行われましたが、これは士分の削減と兵農分離政策をおしすすめ、近世的支配体制を確立しようとする薩摩藩の政策と大きく関係したものと思われます。
幕末期の天保6年(1835)、弾圧は極みに達し、この時期に摘発された本尊は2,000幅、門徒は14万人以上と言われ、弾圧と殉教の悲話は現在に伝えられています。
このような弾圧の続くなか、真宗信者は講(地域ごとの信仰者による集まり)を結成し、ひそかに山深い辺土や船上やガマ(洞穴)の中で法座を開き、また肥後水俣の源光寺や西念寺に聴聞に赴き、信仰を存続しました。花尾念仏洞、田島念仏洞、立山念仏洞など、現在も鹿児島、宮崎の各所にその遺跡は残存しています。
約300年という暗黒の弾圧を経て、明治9年9月5日、ついに鹿児島に「信教自由の令」が布達されました。京都・本願寺は時を移さず鹿児島開教に着手しました。
▶浄土真宗本願寺派(西本願寺)本願寺鹿児島別院HPより


平佐南方講間御仏壇屏風型御本尊
御本尊を荘厳する宮殿は薄い屏風型の白木(杉)箱で、3つ折りになり、簡単に始末できることから、かくれ仏壇であったと推測される。
御座をひらく場として使用されたのは「ガマ」(洞窟)「クラ」(土蔵)であった。取り締まりが厳しい時代には、御座が開かれる時には必ず見張りを立てていたといわれる。
この御本尊はいつの時代からのものか定かではないが、この御本尊の裏書きには廣如(1798〜1871 本願寺第20代御門主)と記されている。平佐地区に昔から住んでいた人々によって、近年まで維持されていた。


念仏取り締まりの実態
初期の取り締まり
念仏禁制にはなっていても一般的には4〜5年に1回ぐらい藩の役人が見廻りにくる程度で、それはなれ合い的な面もありました。しかし、たまに下級役人が権力をかさに領民をいじめそしてそれを領民を治める道具にされたようであります。しかし平佐での取り締まりの記録はありません。

天保改革後の取り締まりと平佐
天保の藩財政改革からまったく取り締まりの様相は一変しました。その頃の薩摩藩の財政は500万両という巨額の藩債を抱え、破綻しておりました。ちょうど、時を同じくして、本願寺も60万両という莫大な借財を抱えており、この解消を図るため全国に使僧を派遣し墾志上納金の募金に当らせる時でした。
この頃の本願寺の記録に文政10年(1827)福岡の浄泉寺曇冥を北薩方面に派遣し6ヶ月間で180両もの墾志を集めたとあります。それからも使僧派遣が度々なされていますが、これが天保の財政改革と競合しました。
藩としては貴重な金銭が藩外に流出することに危機感を募らせ、これがもとになって、かくれ念仏への大弾圧となりました。天保6年(1835)藩全土の取り締まりに着手、御本尊2,000幅、門徒14万人を摘発し、拷問が行われました。また、本願寺へ直接探索を忍ばせ、献上金、人名簿が露見し藩内の諸講は大混乱に陥りました。
私どもの平佐郷は北郷家の私領で念仏禁制も余りきびしくなかったようであります。白和の人達はもともと北郷家の家臣の分かされです。商人として水上・海上の交易によって富を築き北郷家の財政を支えた人達です。念仏の盛んな地域との交流は当然ですので、当然念仏の感化を受けていたと考えられます。
平佐南方講間御仏壇屏風型御本尊
平佐南方講間御仏壇屏風型御本尊裏書
天辰上目内寺、御文章第21世明如の奥書
傑僧大洲鉄然師 筆 詩幅
後に真光寺創建に力をつくした有島加和子は、北郷家12代久新の寵愛を受けながら、密かに天草の正光寺にお参りを続けた人です。しかし、北郷家がこれを取り締まった記録はありません。このように平佐は大きな念仏取り締まりを受けることなく明治9年9月5日の信教の自由令を迎えることができました。

門徒の拡がりと門徒組織(講・講間)
門徒組織の実態
それでは念仏禁制が酷しかった時代、浄土真宗の信者はどれ位いたかということはわからないのですが、宝永5年(1708)出水の平松地区の記録が残されているので、参考に述べてみます。平松の士分は173人、そのうちの6人を除いてあとは全部浄土真宗の信者であります。そして村人は全員が信者であったと記録されています。
この地区は水俣の源光寺の門徒ですので、特に多いようにも考えられますが、他の地域であっても同様のことが云えそうであります。それは信者がばらばらにいるのではなく、集落、村といった単位で信者の組織ができていたからであります。その組織を講と呼びました。
講の下部組織は講間、内寺であり、夜間集まりやすいように1〜2の集落で講間ができていました。この下部組織が大きく集まり、村単位又は数村単位で講ができており、この講には講頭がいました。講間、内寺には番役がいてその人が中心になって御法義を伝えることになっていました。そのため番役は誰でも勤まらないので、士族・平民を問わず適任者を選びました。天辰上目の内寺の仏壇の裏蓋に番役の墨書が残されています。大正期のものですがこの時代までも番役の名は継承されていたことがわかります。
現存する昔の講間や内寺の本願寺から下付されました聖典は御文章が多いですが、当時の御法義の伝えかたはこの御法分が中心のようです。それにしても、浄土真宗は聴聞第一といわれながら、番役頼りの御法義に門徒が結束していたことに頭が下がります。

真光寺の前身となった講・講間
それならば真光寺の前身である講や・講間、内寺の実態はどうであったか、乏しい資料からみてみます。その前に真光寺にとって記念すべき遺跡を紹介します。
川内市郷土史研究会編「川内の古寺院」によりますと、楠元町の中地区に三光院という遺跡があり、天文年間1532年頃創建で浄土真宗のお寺であったということです。楠元地区は浄土真宗の土徳の地であります。現在の真光寺との永い歴史を感ぜずにはおられません。
○ 楠元地区の講、講間、内寺の名残

楠元の上・中・下の各集会所に御仏壇が安置され、大字集会所には御講仏様が安置されています。この御講仏様は樋脇町塔之原を含めた講の御本尊であったとのことです。

○ 天辰地区の講・講間・内寺の名残

上目(坊ノ下、三堂)、下目(馬場と坊ノ下の一部)に内寺があり御仏壇を廻り持ちしていましたが、現在御仏壇はお寺に保管されています。待ちにまった薩摩の念仏開禁は明治9年9月5日です。
浄土真宗の説教所が天辰にできたのが明治11年3月で、その早さにおどろきます。そのときの講頭は野元杉右衛門で、その住居の土蔵が、かくれ念仏時代の門徒の集合所になっていたとのことです。

○ 平佐地区の講、講間の名残

平佐地区に昔から住んでいた人達によって現在も講間が維持されています。御仏壇はかくれ念仏の屏風型で貴重なものです。

○ その他の地区

白和町を含めた広い範囲の講や講間があった筈ですが解っていません。
なお、本願寺の薩摩国諸記によりますと、川内の諸講として、十八日講が川東、川南、川北に三講あったと記されています。

講の名の起こり
講の呼び名は人々が集まる目的によって使いわけられています。信仰者が集まって結ぶ団体を講と呼びました。それに大きな法要にも古くから講名が使われていました。例えば最勝講、報恩講などは法要の呼び名です。そのほか信仰に関係のないお金を融通し合う頼母子講等もあります。
薩摩では特に色々な寄り合いに講名が使われてきました。そこで浄土真宗の門徒が集まって結ぶ講(念仏講)も、この寄り合い講のような講名にして念仏講であることを隠したようです。
本願寺に申し届けた講の初見は「薩摩内場煙草講」で、本願寺の「御講仏御示談簿」にあります。そのほか講名を挙げますと椎茸講、御鏡講、細布講、朱墨講等で、川内方面は十八日講(川東、川南、川北)がありました。このように一見して浄土真宗の信仰集団(講)とは関係のないような講名になっています。
○ 薩摩のかくれ門徒と本願寺

門徒にとって今一つ大事なことは、浄土往生を約束してくれる本願寺とのつながりでした。それは本山参りはもとより、隣県のお寺参りも意にまかせないもどかしさを何とか代わってくれるのは、本山への御礼をお金にすることでした。お金が本山に届けられたことで、この私は確実に浄土に往生させていただく具体的な手立てができたと喜んだということです。何でもかなえられる今日ですが、大切なものを失ってしまっている思いにかられます。
真光寺の沿革をたずねるとき、本願寺のことにまでふれる必要があります。薩摩の酷しい念仏禁制の時代に、薩摩の門信徒達は本願寺との強い結びつきのなかにあって、はじめて御本願へのよろこびとその救いを体現してきたからであります。このような門信徒の永い歴史があって真光寺は生まれたものであります。単に念仏開禁という時代の流れによって真光寺が創設されたものでないことを想いおこしてみる必要があります。

○ 廟堂から本願寺へ

本願寺の起こりは、宗祖親鸞聖人が弘長2年(1262)11月28日、新暦では1月16日、90歳で示寂されますと、京都東山鳥辺野の北大谷に笠塔婆のささやかなお墓が造られました。その墓所が基になってのちに本願寺へとなっていきました。
聖人が示寂されて10年目に当たる文永9年(1272)聖人の末娘覚信尼や関東の門弟たちは、聖人のご遺徳を偲びこれを顕彰するため廟堂を建立することにしました。その場所は大谷の西吉水の覚信尼夫婦の屋敷で、そこにお堂を建てそこにお墓を移しました。これを大谷廟堂として、その留守職には覚信尼の子孫があたることになりました。これが本願寺の起こりで宗祖親鸞聖人の第2世となられたのが聖人の孫如信上人です。
「本願寺」と称するようになったのは、聖人の曾孫覚如上人第3世のときからです。しかし、本願寺の教団はおよそ1世紀にわたって低迷を続け衰亡していきます。

○ 本願寺の興隆

この本願寺を大教団に育てたのは第8世蓮如上人であります。しかし、本願寺が盛んになるにつれ延暦寺衆徒の反感を買い、堂舎は破壊されます。そこで越前(福井県)吉崎に拠点を移します。御文章一帖八(聖典1095)文明第3初夏上旬のころよりの書き出しの御文章が吉崎に移られたときのものです。
ここの吉崎で精力的に御文章を書かれ、その平易な御文章などで独自の布教をされ宗祖の教えを民衆に伝えてゆかれます。この吉崎を去り京都郊外の山科に伽藍を構えられますが、天文2年(1533)山科本願寺は六角氏や日蓮宗徒によって焼き打ちに遭います。

○ 石山本願寺から京都本願寺へ

御文章四帖十五(聖典1187)そもそも、当国摂州東成生玉の庄内大阪という在所は、という御文章に「明応第五(1496年)に一宇の坊舎を建立せしめ」とあるように後の石山本願寺となる坊舎を蓮如上人82歳のとき建立されています。永禄2年(1559)第11世顕如上人のとき天下統一をめざす織田信長との石山戦争が始まります。11年に及んだ戦争のはてに信長と和睦した本願寺は、石山を引き払い天正19年(1591)豊臣秀吉から、京都六条堀川の地を与えられました。これが現在の西本願寺の場所であります。石山本願寺の跡は秀吉によって大阪城が築城されます。

○ 西、東本願寺に別立

慶長7年(1602)徳川家康は第12世准如上人のとき本願寺を別立、教如上人に京都七条烏丸に地を与え、本願寺を西と東に分けることになりました。それ以降、両本願寺を西本願寺・東本願寺と呼ぶようになりました。これが西本願寺の起こりです。

念仏開禁と西南の役
念仏の開禁
念仏をどんなに取り締まっても、もはや手に負えない程、領民の間に念仏が定着していたのが、明治維新当時の薩摩の実態でした。各講と本願寺は密かに連絡を取りあっておりました。
明治6年12月1日付で大教正大谷光尊(21世明如上人)から南州有志同行中に御消息が下されています。
 追々公ニ弘教の端モヒラケ、心オキナク聞法ノ良縁モ来ルベキ事ナレバ…
と開教が間近に迫っていることを薩摩の門徒に知らせるものでした。
しかし待望の信教自由令はそれから3年を待たなければなりませんでした。そしてその自由令が明治9年9月5日発せられるや、門徒有志は早速本願寺に馳せ参じ、浄土真宗開教の端緒を切りました。
 ▶かくれ念仏の歴史について、慈眼堂の法物室に展示しています。
天辰上目内寺、御文章第21世明如の奥書(3点とも)