真光寺の歴史

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真光寺のホームページへようこそお越し下さいました。
真光寺は鹿児島県薩摩川内市にある浄土真宗本願寺派のお寺です。
このホームページを通して、門徒・有縁の皆様がお寺を身近に感じ、
お一人でも多くの方がお寺に足を運ぶご縁となれば有難いです。

真光寺の歩み

西暦
年号
事項
1506
ごろ
薩摩に真宗が伝播したのは室町時代中期(一五〇〇年頃)と言われる。
1587
天正15
豊臣秀吉による島津攻め。島津義久、泰平寺にて秀吉に和を乞う。
この時、都城領主の北郷三久同席する。
1595
文禄4
島津義久、北郷三久に平佐をはじめ九か所の土地を与える。
三久、都城より移封。
1597
慶長2
島津義弘、一向宗禁止令を定める。
『一向宗禁止令 初期の取り締まり』
薩摩藩が国法として一向宗禁止令を定めたのは慶長2年(1597)島津家十七代当主義弘の時のことでした。当時は念仏禁制になっていても、藩の役人の見回りは4~5年に1回程度で、程度のひどい弾圧は見られなかったようです。 なお、「一向宗」という呼び方は、他宗からの浄土真宗の俗称です。蓮如上人は「一向宗」という呼び方は浄土真宗の側からは言わないと誡めています。
『平佐北郷家と白和とのかかわり』
北郷三久は、文禄4年(1595)島津家十六代当主義久によって、日向国三俣院(現在の都城市高城町)から平佐に所領を移されました。これが平佐北郷家の始まりです。以後、明治2年(1869)の版籍奉還まで北郷家の私領として、平佐は独特の文化を生みました。
また、ここ白和には、三久を慕う者たちが商人として生活するようになりました。その後、川内川に面し、水上、海上交通の拠点として、北郷家の財政を支える商人の町として大いに栄えることになりました。
1781
文明16年11月21日
天辰下目内寺保管の御文章に、この日付の奥書(第十七世 法如上人)がある。
1871
明治4年8月19日
平佐南方講間御仏壇に廣如の裏書がある。
廣如上人(第二十世)御忌日。
1876
明治9年9月5日
信教の自由令が布告される。(真宗の解禁)
1878
明治11年3月
平佐郷天辰村説教所を開設。
1879
明治12年10月9日
大谷本願寺親鸞聖人御真影が下付される。
(現在の真光寺本堂に掲げられている御真影)
1882
明治15年
白和に、民家を借上げて仮説教所開設。
1892
明治25年6月24日
天辰説教所、白和への移転が許可される。
1893
明治26年11月1日
本堂落成入仏式盛大に挙行。
屋根は暴風雨対策のためモッコ屋根とした。
1902
明治35年9月19日
白和説教所を独立寺院として県知事に許可される。
 
明治35年12月11日
「龍音山真光寺」の寺号を本願寺に登録。
1903
明治36年5月14日
広島県豊田郡船木村光顔寺住職 高橋貫籍師、真光寺住職代務に任命される。
のち川内市中村町金照寺住職藤本純孝師も住職代務を兼務した時期があった。
1905
明治38年7月20日
御本尊 阿弥陀如来御木像が下付される。
『天保の厳しい取り締まりを逃れた平佐』
念仏の取り締まりの様相が一変したのは天保6年(1835)のことでした。この頃の薩摩藩の財政は五百万両という巨額の藩債を抱え、破綻状態でした。同じころ、本願寺も莫大な借財を抱えていたので、薩摩藩は貴重な金銭が本願寺への懇志として藩外に流出することに危機感を募らせました。大弾圧によって、藩全体では、御本尊2000幅、門徒14万人が摘発され、拷問が行われました。
ただし、平佐郷は北郷家の私領であったために、厳しい取り締まりから逃れることができました。それは、海上交易によって富を築き、北郷家の財政を支えていた白和の人たちには、念仏の盛んな地域との交流もあり、念仏に感化されていたからだと考えられます。
『西南の役によって出遅れた開教』
信教の自由令から約5か月後,西南の役が起こりました。
真宗の開教に反発していた士族たちは暴徒化し、開教師大洲鉄然ら8名を捕縛、投獄、拷問にかけました。開教師のいない戦禍の最中にあった門徒たちは、仮説教所(別院の前身)設立の準備を進めていました。永く禁制に堪えてきた門徒たちの執念を見るようです。9月24日の西郷の城山自刃によって西南の役は終結。いよいよ本格的な開教を迎えたのです。
1924
大正13年10月14日
中郷地区に中郷設教所(安国寺)を開設。
1925
大正14年12月21日
鹿児島教区教務所録事
鹿児島別院参務 押野慶生師 真光寺専任住職に任命される。
同時に法務員として山下慶信師入寺。
1927
昭和2年
鐘楼を建設。
 
昭和2年4月1日
宗教法人立川内幼稚園開設(川内における幼稚園の草分け)。
1940
昭和15年4月
社会事業川内隣保館を設立。
保育及びに乳幼児健康相談事業、健康優良児表彰制度発足。
川内幼稚園もこれに移行する。
1943
昭和18年1月
太平洋戦争激化。梵鐘を軍に供出。
1944
昭和19年
社会事業、授産所を開設。
1945
昭和20年6月
空襲激しく尊像はじめ仏具など最小限の避難(楠元 渕上源次郎宅)
 
昭和20年7月30日
空襲により本堂・庫裡・園舎・鐘楼悉く灰塵となる。
楠元に避難し、諏訪神社を仮住まいとする
1946
昭和21年
焼跡にバラック建の住宅、仮本堂を建設。
1947
昭和22年
庫裏、保育園、母子寮(藤花寮)を建設。
1948
昭和23年5月1日
児童福祉法による県知事の認可。川内隣保館保育園・同藤花寮(母子寮)
1963
昭和38年4月
山門の建設。大小路町愛甲病院寄贈による。
1972
昭和47年3月15日
初代住職 押野慶生師逝去。七四歳。
県社会福祉協議会長、その他社会福社事業に功労があったことにより、
勲四等瑞宝章に叙せらる。
1973
昭和48年3月31日
初母子寮(授産所)を廃止。
 
昭和48年5月12日
押野慶麿師 二代目住職を補任される。
 
昭和48年10月6日
真光寺建設委員会発足。
1976
昭和51年4月9日
工事着工。仮本堂の移設開始。
 
昭和51年12月4日
本堂竣工式。
1980
昭和55年4月1日
学校法人川内幼稚園を平佐町三五九〇に開設。
 
昭和55年8月13日
初代住職 押野慶生坊守押野晃子逝去。八四歳。
1983
昭和58年12月24日
庫裡新築落成。
1985
昭和60年11月5日
即如門主(第二四世)御巡教。川内幼稚園お立ち寄り。
真光寺境内に大山木を記念植樹される。
1988
昭和63年11月19日
本堂落成住職継承慶讃法要。
第三代住職として押野慶明師継承。
真光寺法物展開催。
1989
平成元年3月18日
第二代住職 押野慶麿師逝去。七二歳。
1994
平成6年7月21日
山門修復並びに境内拡幅整備。
1998
平成10年2月15日
川内隣保館保育園五〇周年創立七〇周年記念事業として、
園児のほいく発表会及び記念法要(川内市民会館大ホール)、
記念コンサート(常田富士男氏と京都フィルハーモニー)開催。
1999
平成11年12月14日
藤花庵落成。門徒交流の場、学童保育の場できる。
2004
平成16年12月11日
寺号公称百周年記念事業記念法要。
2006
平成18年4月27日
寺号公称百周年記念誌発行。
2011
平成23年5月21日
第二世住職 押野慶麿坊守押野久子逝去。九十歳。
2011
平成23年10月20日
第三世住職 押野慶明坊守押野美代逝去。五四歳。
2012
平成24年3月31日
藤花精舎川内隣保館保育園竣工。
2013
平成25年10月1日
慈眼堂竣工並びに法物室整備。
本堂落成入仏式
押野慶生師
鐘楼
川内幼稚園
仮本堂
押野慶麿師
庫裡新築
即如門主(第二四世)御巡教
押野慶明師