真光寺の歴史
かくれ念仏の歴史
鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。楠元の上・中・下の各集会所に御仏壇が安置され、大字集会所には御講仏様が安置されています。この御講仏様は樋脇町塔之原を含めた講の御本尊であったとのことです。
上目(坊ノ下、三堂)、下目(馬場と坊ノ下の一部)に内寺があり御仏壇を廻り持ちしていましたが、現在御仏壇はお寺に保管されています。待ちにまった薩摩の念仏開禁は明治9年9月5日です。
浄土真宗の説教所が天辰にできたのが明治11年3月で、その早さにおどろきます。そのときの講頭は野元杉右衛門で、その住居の土蔵が、かくれ念仏時代の門徒の集合所になっていたとのことです。
平佐地区に昔から住んでいた人達によって現在も講間が維持されています。御仏壇はかくれ念仏の屏風型で貴重なものです。
白和町を含めた広い範囲の講や講間があった筈ですが解っていません。
なお、本願寺の薩摩国諸記によりますと、川内の諸講として、十八日講が川東、川南、川北に三講あったと記されています。
門徒にとって今一つ大事なことは、浄土往生を約束してくれる本願寺とのつながりでした。それは本山参りはもとより、隣県のお寺参りも意にまかせないもどかしさを何とか代わってくれるのは、本山への御礼をお金にすることでした。お金が本山に届けられたことで、この私は確実に浄土に往生させていただく具体的な手立てができたと喜んだということです。何でもかなえられる今日ですが、大切なものを失ってしまっている思いにかられます。
真光寺の沿革をたずねるとき、本願寺のことにまでふれる必要があります。薩摩の酷しい念仏禁制の時代に、薩摩の門信徒達は本願寺との強い結びつきのなかにあって、はじめて御本願へのよろこびとその救いを体現してきたからであります。このような門信徒の永い歴史があって真光寺は生まれたものであります。単に念仏開禁という時代の流れによって真光寺が創設されたものでないことを想いおこしてみる必要があります。
本願寺の起こりは、宗祖親鸞聖人が弘長2年(1262)11月28日、新暦では1月16日、90歳で示寂されますと、京都東山鳥辺野の北大谷に笠塔婆のささやかなお墓が造られました。その墓所が基になってのちに本願寺へとなっていきました。
聖人が示寂されて10年目に当たる文永9年(1272)聖人の末娘覚信尼や関東の門弟たちは、聖人のご遺徳を偲びこれを顕彰するため廟堂を建立することにしました。その場所は大谷の西吉水の覚信尼夫婦の屋敷で、そこにお堂を建てそこにお墓を移しました。これを大谷廟堂として、その留守職には覚信尼の子孫があたることになりました。これが本願寺の起こりで宗祖親鸞聖人の第2世となられたのが聖人の孫如信上人です。
「本願寺」と称するようになったのは、聖人の曾孫覚如上人第3世のときからです。しかし、本願寺の教団はおよそ1世紀にわたって低迷を続け衰亡していきます。
この本願寺を大教団に育てたのは第8世蓮如上人であります。しかし、本願寺が盛んになるにつれ延暦寺衆徒の反感を買い、堂舎は破壊されます。そこで越前(福井県)吉崎に拠点を移します。御文章一帖八(聖典1095)文明第3初夏上旬のころよりの書き出しの御文章が吉崎に移られたときのものです。
ここの吉崎で精力的に御文章を書かれ、その平易な御文章などで独自の布教をされ宗祖の教えを民衆に伝えてゆかれます。この吉崎を去り京都郊外の山科に伽藍を構えられますが、天文2年(1533)山科本願寺は六角氏や日蓮宗徒によって焼き打ちに遭います。
御文章四帖十五(聖典1187)そもそも、当国摂州東成生玉の庄内大阪という在所は、という御文章に「明応第五(1496年)に一宇の坊舎を建立せしめ」とあるように後の石山本願寺となる坊舎を蓮如上人82歳のとき建立されています。永禄2年(1559)第11世顕如上人のとき天下統一をめざす織田信長との石山戦争が始まります。11年に及んだ戦争のはてに信長と和睦した本願寺は、石山を引き払い天正19年(1591)豊臣秀吉から、京都六条堀川の地を与えられました。これが現在の西本願寺の場所であります。石山本願寺の跡は秀吉によって大阪城が築城されます。
慶長7年(1602)徳川家康は第12世准如上人のとき本願寺を別立、教如上人に京都七条烏丸に地を与え、本願寺を西と東に分けることになりました。それ以降、両本願寺を西本願寺・東本願寺と呼ぶようになりました。これが西本願寺の起こりです。