「真光寺と田中直哉」
田中 直哉
嘉永6年(1853)~ 明治18年(1885)
平佐生まれ。性剛胆、俊敏、気概に満ち、弱冠28歳で県議会議員となる。
教育施設を整備し、国家有為の人材をつくることに奔走した。
直哉は、宗教の力をもって一般大衆の教化をはかることが急務と考え、本山を訪ね説教僧の派遣を懇請、鹿児島開教に盡力し、真光寺創建への基礎づくりをした。
これに対して、本山側も鹿児島の布教準備を進め、大洲鉄然、暉峻普瑞等の名僧を派遣した。
明治18年(1885)に逝去。
大洲鉄然は周防国(現・山口県)出身。幕末から明治期の傑僧。明治9年に来鹿。
西南の役で捕縛されながらも、出張所長(現在の輪番職)として真宗開教に大きく貢献した。その後も国内外で布教を展開し、その功績から晩年は本山の執行長も務めた。
田中直哉の弁説明快な要請に惚れた大洲鉄然は、田中直哉歿後次の七言絶句を送りその死を惜しんだ。
なお、この詩幅は、昭和36年に田中家から真光寺に寄贈された。
▶大洲鉄然筆 掛幅 田中直哉を称える詩幅は、慈眼堂の法物室に展示しています。
「建議堂々動縣臺 遂令吾敎自由開
其人逝矣其名住 走卒兒童誦直哉」
大洲鉄然 七言絶句
大洲鉄然 七言絶句